取材を進めていく上で、とある東大OB(Aさん)と居酒屋で酒を交わすことがあった。
96年卒業のAさんは非常に気さくな人で、始まってすぐに、下らない四方山話で盛り上がった。
しかし、取材班の1人が「例の話題」を持ち出した時、
一転してAさんの顔が不自然にこわばったのを今でも覚えている。
90年代後半―
東大法学部の一部の間で一つの噂がまことしやかに広まっていたらしい。
駒場の正門を入って左手にある講堂、つまり900番講堂にまつわる何とも不思議な話である。
最初に気づいたのはAさんの知人の知人にあたる2年生の男子学生であったと言う。
講堂での授業中、妙な視線を感じるので、ふと見上げてみると、
およそ学生ともつかぬ老けた中年のオッサンが二階席から自分を見下ろしているのだ。
黒縁のメガネをかけ、少々髪の毛の薄い、ふくよかな中年男性であった。
「変なオジサンだな」
と思い、その日は何も無く過ぎていった。
その日以降連日現れるオッサンの噂は彼の仲間内ではもはや有名な事実となっていた。
「聴講生かな。ちゃんと授業受けろよ。」
などと笑い話で盛り上がっていたと言う。
知人伝いで「900番講堂のオッサン」の話を聞いたAさんは、
面白半分でオッサンに話しかけることにした。
授業中トイレに立つフリをして二階席に行き、
「なにか御用ですか?」
と声をかけるという内容。
仲間内での話は若干の盛り上がりを見せ、
「二階席にいなかったらどうする」
「突然襲われたらどうする」
などと憶測が飛び交った。
11月の寒い日。
いつものように授業を受ける傍ら、ちらちらと二階席を確認していた偵察隊から、
「オッサン現る」との通報が入った。
Aさんは仲間の応援をうけ意気揚々と席を立ち、二階席へいそいそと上がった。
出口へ向かい、その左手にある狭く薄暗い階段を上り、
他の学生の邪魔にならないよう背をかがめながら辺りを見渡す。
明らかに目立つはずと思っていたのだが、ぱっと見でオッサンの姿が見当たらない。
「これは面白い話になるぞ。」
Aさんは「幻のオッサン」と題したストーリーを頭の中でくゆらせつつ、
早く仲間に伝えたい一心で足早に階段を下りた。
階段を降り切り、講堂の入り口辺りで「ついでに」と思ったAさんは、
そのままトイレに向かった。
そこにオッサンがいた。
オッサンは用を足すわけでもなく、入り口に向かって呆然と立っている。
青のポロシャツにベージュのチノパン。
黒縁でどの強いめがねをし、顔は脂ぎっており、
テカテカに輝いたオデコにはバーコードのような髪が張り付いている。
不敵な笑みを浮かべる口元。そこから見える歯はヤニでまっ黄色であった。
Aさんはとっさのことに驚き、
「どうも」と声をかけてしまった。
オッサンは大きく口を開けて笑うと、
突然抱きついてくる。
声を出せず体で反抗するが、オッサンの腕力は凄まじく、
密着した体からは硫黄の臭いがする。
激しい揉み合いの後、全力でオッサンを引き離すと、
オッサンはケタケタと笑いながら走り去っていった。
その日のうちにAさんは学生課に被害届を出した。
当局側の対応は、「警備に注力する」とだけで、他に何もない。
やけに小慣れた手続きで、驚く様子もないことにAさんは未だに疑問を抱いている。
この話は事実であり、このオッサンが900番講堂付近をうろうろしていたという
目撃証言は当時山のようにあった。
90年代後半の話。
講堂近くの不審な人物には気をつけていただきたい。


